本を読んで、またテレビなどを見て、いいと思った言葉に出会ってもすぐ忘れてしまうので、数年前より携帯電話等に「心動いた言葉」をメモしています。今回、整理を兼ねて掲載していきます。万人向けとは思いませんが、一つでも参考になれば幸いです。(なお、出典はほとんどが分からなくなってます。)

「腹が減ったら何でもうまい」

 

あるお寺の老師の言葉だったと思います。「空腹は最上のソースである」とか「空き腹にまずい物なし」と同義語と言えますが、この言葉はお腹にすとんと落ちました。真実にして簡潔、環境や健康に良く、前向きに生きる力さえ感じます。過去、日本人の誰もが口にした言葉だと思います。食品ロスが問題になっている現在、グルメもいいと思いますが、体を動かしてお腹を空かせてありがたく食事をいただきたいものです。

「今を味わう」

 

この言葉は同じ意味の多くの類語があります。少し仏教の勉強を始めてから、心を今に置く大切さと難しさを感じています。私はこれまで今を味わうことを意識せず、何かをしていてもうわの空で頭の中では次の予定を考えたり、過去のことをぶり返して反芻してみたり、これからのことを心配してみたりの一人おしゃべり。頭に自ら苦を描いて繰り返し味わっているようなものです。頭は同時に複数のことに使えないので、今を味わうことで、苦を生む一人おしゃべりが止むことになります。しかし、気が付くとまた意識は別の所に行ってしまうのでなかなかできません。知っていると出来るは違うと言いますが、相当の修練を積む必要がありそうです。なお、苦を生まない一人おしゃべりは思索であり、アイデアを思いついたり、文化を生んだりするものと考えます。頭の中の一人おしゃべりが苦の生産にならないようにしたいものです。

「呼吸で心を整える」

 

 心を落ち着かせようとしてみても、自分の意志ではどうにもならないもの。しかし、意志でコントロールできる呼吸によって心を整えることができます。落ち着かない時は浅い呼吸になっているので、まずは意識して、息を深く長く吐きます。そうすると吸う息は自然と入りお腹が膨らみます。この腹式呼吸をおこなっていく内に少しづつ心が落ち着いてきます。河内長野市にある観心寺では、ご住職の毎月の法話に腹式呼吸によっては心を落ち着かせることで心が楽になるお話しがあり、私もよく聴きに行かせてもらっています。自分の体にありながら自分の意志でどうにもならない心。これは考えてみると内臓の動きを司っている自律神経も同じです。しかし、肺だけは有難いことに自律神経と随意神経が共存しているため、自分の意志を働かせて呼吸することができます。そのためゆっくりとした腹式呼吸により心を落ち着かせることができると考えられます。呼吸は体と心をつなぐもの。心が疲れていると感じた時は、まずは、ゆっくり深く息を吐いて呼吸に意識を向けるようにしたいと思っています。

「落ち着いていきや~」

 

 この言葉は、ご存知、女性ピン芸人・ゆりやんのネタにもなっています。私が以前勤務していた市役所で管理職となって初めての議会でのこと。答弁を求められ、マイクを持って立とうとした時、隣に座っている上司から「ゆっくりでええから、落ち着いて」と走り書きしたメモを渡されました。私が緊張のあまり間違った答弁をしないか心配した上司の親心です。私はそのメモのおかげで少し落ち着くことができ、何とか初答弁を乗り切ることができました。その後もしばらくはお守りとして、議会の度にそのメモをノートに忍ばせてました。緊張している時は早口になりがちですが、そこを意識してあえて少しゆっくりめに話そうとする。これに引きずられて心も落ち着いてくるのではないかと思います。ここでも呼気を長くするという息の仕組みの働きがありそうです。何事をするにしても、心を落ち着かせると頭も柔軟になり、よい考えも出やすくなります。緊張しやすい私ですが、緊張している時こそ、落ち着いていきや~。

 三つの戒め

1.「品性下劣なことはするな」

2.「心の中で他人を批判しない」

3.「欲に振り回されるな

 

 それぞれは別々に本やテレビで耳にした言葉です。簡単な言葉であり、誰がどのような文脈の中で使ったか忘れましたが、腹にすとんと納まりました。この言葉をメモしたのは、自分が苦しまない心がけと思えたからです。一つめは、どこかの師匠が弟子に言った言葉だったと思います。心の品性が下劣にならないよう行動や振る舞いに気をつけることは人として生きる上で大切なことです。二つめは、「心の中で」と言ってるところがみそです。心の一人おしゃべりがマイナスを生まないように気をつけたいものです。三つめは、苦しみの原因は欲望・執着・憎悪などと言われます。欲をかいたばかりに苦しむことがあります。我欲に振り回されないように戒めていきたいと思います。

「楽しいことを見つけて心豊かに」

 

 書名は忘れましたが以前読んだ本によると、お釈迦様は人生は苦に満ちていると認識しながらも、この世は美しい、人の命は甘美にものだという言葉を残しておられるそうです。せっかくこの世に生を受けたからには楽しいことを見つけて心豊かに生きたいものです。「人生で大切なのは心の支えになる大好きなものを見つけること」という言葉もあります。楽しいこと・大好きなものは人それぞれですが、私は広く好奇心を持って、自分の良い点を伸ばすようなことをしたいと思っています。

「素直は道の初めにして、すべてなり」

 

 市役所勤務時代、他行政の幹部職員が部下の昇格評価に際しては、素直さを最大の評価要素としていることを聞いたことがあります。今後の伸びが期待できると言うのです。私もその話しを聞き、本当にそうだなと思ったことがあります。パナソニック創業者の松下幸之助さんも「素直な心」がすべての出発点になると、とても大事にされました。私は以前、幸之助さんのお人柄にハマって、本・CD・記念館・お墓と巡礼したことから、素直さと聞くと幸之助さんが浮かんできます。素直さは謙虚さにも通じます。反対に頑固で傲慢な思いは自分から寛容さを失わせ、自分を大きく損ないます。なかなか素直になれない私ですが、常に自分を振り返り、素直でありたいと思っています。

「末期の目を持って生きる」

 

 誰しも寿命のくびきから逃れることはできません。私も死ぬことを忘れたような生活をしています。しかし、私にもそう遠くない日に認知症やガンになどを患って死ぬ日が確実に訪れます。あるいは突然の事故で死ぬかも知れません。また平均寿命ほど生きたとしても健康に動ける日はあと少しかも知れません。私の年齢で父は脳梗塞を発症していました。些事にかまける毎日ですが、末期の目を持って自分の人生に一番大事なことは何かを考え、優先順位をつけて先送りせずに、すべきこと、やりたいことをしていきたいと思います。

「人の一生は自己表現である」

 

 この言葉に最初に触れたのは19歳の頃。姉が家にほど近いPL病院に就職し、持って帰ったPL教団の機関紙からでした。この言葉を知って、本当にそうだ。将来たとえ思うような仕事につけなくても、そこに独自の工夫をこらし自分を少しでも表現できれば、おもしろさややりがいを見出せるはずだ。浪人生で将来も決まらず宙ぶらりんな気持ちでいた私は、一筋の光明を見た思いでした。また、同じく同紙に「表現せざれば悩みがある」という言葉もありました。これも本当にそうだと思いました。人間の本質でもあると思います。先日もテレビで歌人の永田和宏さんが短歌というものは内面を表現する、言語化するもの。やっぱり人に知ってほしいという強い気持ちがあると話されていました。なお、自己表現には言語以外にも多くの方法があります。私にとってはこの拙いホームページもその一つだと思っています。

「食い違いがあれば、一般的かつ合理的に考える

 

 多くの人が暮らす社会では意見の違いが往々にして生じるため、当然の考え方と言えます。特に公務員として在職中は、感情的な対応になったり、公正を欠く対応は許されませんでした。初期対応を誤れば、行政への信用を失墜させ議会やマスコミ、市民等から激しく非難され、多くの人に迷惑をかけてしまうからです。職場の皆でリスク管理や説明責任に神経をとがらせていました。その時に一番重要視したのが、一般的、合理的に考えてどうか、社会通念上どうかという考え方です。つい専門家としての理屈が先行し、視野が狭くなりがちでしたが、そこを指摘してくれたのは他部局から来られた上司でした。何か問題が生じると「自分は専門的な事は分からないので、一般の市民として考える。」と言った上で、会議室のホワイトボードに自らポンチ絵を描き、関係職員から事実関係や意見を聞いて問題を分析してリスクを洗い出し、解決に向けてフロー図を仕上げていきます。法令面、技術面はどうか、誰かの圧力に屈してないか、その方針は社会一般に通用するのか、キーパーソンは誰か、手順や分担はどうするのか、を衆知を集めて速やかに整理していきます。私自身はポンチ絵の活用は下手でしたが、見える化することで問題点の把握がしやすくなり意思統一が図られ、大変勉強になりました。また、時には各種のトラブルの対応に苦慮し、リーガルチェックや一般的な法理のアドバイスを受けに弁護士を訪れましたが、次のようなこともよく言われました。「仮に全市民を集めた大会があったとして、胸を張って説明できますか?大方の納得は得られますか?」

よっさい、よっさい、よっさいこーら♪

 

 よっさい、よっさい、よっさいこーら♪は、秋に聞こえてくる富田林市周辺の地車からの勇ましい掛け声です。腹からの地声や鐘や太鼓には人を元気にさせる不思議な力があります。以前、父が入院していた病院の看護師さんが、病棟のラジカセで地車囃子の音楽を流したら、寝たきりのおじいさんが「地車はどこや?」と起き上ってきたので、びっくりしたと言っておられました。私は若い時はそうでもなかったのですが年齢を重ねるほど、腹に響く鐘や太鼓の音が好きになりました。中でも南河内の秋に鐘や太鼓と相まってテンポよく繰り出されるこの地車の掛け声はつい口ずさみたくなります。それは、「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃ行こうや」と勝手に意味を解釈し、陽気な現状肯定感を感じているからだと思っています。地車がこの掛け声で進むように、人生も陽気に現状肯定して進みたいものです。 

「他人と自分を比べない」

 

 私たちはあらゆることについて、他人と自分を比べる癖があります。安心感を得たり不安感を増したり、劣等感や優越感持ったりしています。他人とは違っていて当たり前なのに、比べることは心をかき乱し、嫉妬心や羨望の思いなど自ら苦を生み出す大きな原因です。それも比べる相手は遠く離れた世界の人ではなしに、自分とほぼほぼ同じと思っているような相手です。昔、母親に嘆きをこぼすと「人は人、自分は自分。気にしていたらつまらんよ。」と言われたものです。幸せは自分の心が決めるもの他人との比較で左右されるものではありません。他人と比較して思い通りにならないことを思い通りにしようとして悩み苦しむのではなく、置かれた場所で自分の花を咲かしたいものです。決して簡単なことではありませんが、他人と比べないことに幸せのヒントがあるような気がします。あえて言えば、比べて良いのは過去の自分だけ。私などは成長を感じられぬまま還暦を過ぎ、どんどん老化が進んでいますが、それも自然なことです。

 

「苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。自分に何ができるかを考え、それを実行すればよい。」「他者に貢献することで居場所を確保すればよい。」

 

これは、すべての悩みは対人関係の悩みであると言った心理学者アドラーの言葉です。本当にその通りだと思います。出典は忘れましたが、「すべての幸福は他者を思い遣ることで生じる。すべての不幸は自分のことだけを考えることで生じる。」、「誰かに貢献できることが自分の力になる。」という言葉など、古今東西多くの類語があると思います。確かに、仕事や介護、ボランティアなど、人のために一生懸命になることで自分の苦しみを忘れ、そして苦しみから抜け出し、気がつくと自分のやりがいや幸福を得ているということがあります。そう考えると、人への貢献は自分のため。自分にできる貢献を心がけたいものです。

「人生には3つのものがあればいい、希望と勇気とサムマネー」

 

 喜劇王チャップリンが映画ライムライトの中で、病気で踊れなくなり生きる希望を失っていたバレリーナから「どうしたら、生きていけるの?」と聞かれた時に言った有名なセリフです。近くにできた喫茶店の勘定書きの裏にこの言葉が印刷されてました。このワンフレーズ、簡単で分かりやすくて、腹にすとんと納まります。人生には多くのものが必要と言われたり、ややこしいことを言われると自分には無理と思ってしまいますが、希望と勇気と少しばかりのお金があれば、誰もが人生を生きていくことができます。 

「誠意は人を動かす、感謝は幸せを呼ぶ」

 

 二つの大事なキーワードを対にしたこのフレーズ、どこで見たのか記憶してませんが、まさにそうだと共感してメモしたものです。誠意や感謝の気持ちのを持つことの大切さはよく言われてることですが、私などはいつも気が付くと煩悩に覆われてしまっています。知っていることとできるは違うとつくづく思ってしまいます。しかし、「誠意は人を動かす、感謝は幸せを呼ぶ」は真実。誰かのために自分は何ができるかを考え、どんなことにも感謝する気持ちを忘れずに生きていきたいと思います。

「我以外皆我師」

 

 われ以外皆わが師であると私が初めてつくづくと思ったのは、大学浪人時代です。受験勉強と父の認知症介護や家業の継続が重なって、自分ではそうしんどく感じていないのに、自律神経のバランスを崩したことがありました。高3の夏に父が発症して以来いろんな事が重なり急に多くのストレスに晒され、交感神経が何でもない時にふとしたことから緊張し、動悸が亢進したりすることがありました。当時は理由がが分からず、それがまた不安を高めるという負のフィードバックが働きます。幸い1年後に大学に入学できたことで救われましたが、この時、人がいろんな事情を抱え生きていくということは大変なんだということを実感しました。人は他人には分からない問題や病気を抱えていたりする場合が多々あります。そんな時は上手く事ができなくても仕方ないことです。お年寄りは色んな体験を乗り越え生きてきた人。だからどんな年長者もこれまで生きてきたというだけで偉い。弱い人が偉い。偉い人も偉い。だからどんな人でも自分が生きる参考になるものを持っていると思えました。生きているだけで皆偉い。その思いは今も変わっていません。

「再び会える極楽浄土。極楽浄土では、先立たれたご先祖や親しい方が待ってくださっています。いずれそこでその方々と会うことができ、また、後から来る人とも会うことができるのです。」

 

 この言葉は、勤務していた市役所近くの浄土系のお寺の掲示板に掲げられていた標語です。何だかほっとする言葉だと、思わず携帯で撮影させていただきました。この言葉に出会う数年前に母が亡くなり、その時に来ていただいた浄土真宗のお坊さんが、「お母さんについては、何の心配も要りません。極楽浄土に往生された。往生とは往って生まれること。安心してください。」と言われました。当時、その言葉にとても安心できたことを思い出します。その後、なぜ仏教では、そういうことが言えるのだろうかとの疑問をきっかけに、自分なりに仏教の歴史の勉強を始めました。島根大学名誉教授の松塚豊茂先生は仏教はジャングルのようであり、自分だけでは勉強できない、自分に合った善智識すなわち師匠が必要と言われています。私は勝手に数名の僧や学者を師匠として、その方々の著作や講演録等を中心に初期仏教や日本仏教の勉強を楽しみながら少しずつ進めています。死後にご先祖や親しい人と再会できるのは本当だと思っています。

「やってみなければ分からない、やってだめならやめればよい

 

 先日読んだ本で、脳には現状維持バイアスが働いているということを知り、なるほどと思いました。私も以前にやりたいことリストを作っていますが、現状維持バイアスが働くせいか、先延ばししてばかりです。しかし、最初の一歩の勇気のハードルは大きいものの一歩さえ踏み出せれば質量に働く慣性力と同様、十歩、百歩と案外楽に進んで行けるのかも知れません。サントリー創業者の鳥井信治郎さんは「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ。」の言葉を残されています。やってみようと思うことは先延ばしせずに勇気を出してやりたいものです。やってみなければ分からない、やってだめならやめればよいと肩肘張らずに。

「今ある幸せに気づく

 

 子供の頃、幸せの青い鳥の物語はよく理解ができなかったものです。しかし、年齢を重ねテレビなどで世界各地の多様な人々の思いを知るにつけ、幸せは自分の心が決めること、不満で心を占領するのではなく今ある小さな幸せ(青い鳥)に気づくことの重要さを思うようになりました。今ある小さな幸せに気づくことで、穏やかな気持ち、感謝の気持ちで生きることが、今そのままで幸せになる秘訣だと考えています。